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「気になる!くまもと」Vol.992 令和2年7月豪雨から1年。奮闘する作り手たちの今

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0101584 更新日:2021年7月1日更新

未曾有の豪雨災害から1年。奮闘するつくり手たちの今

蓑毛鍛冶屋の写真

大和一酒造の代表下田文仁さんの写真

人吉市の中心部を悠然と流れる清流・球磨川。川とともに発展してきた街は人と自然が深く結びつき、そこに暮らす人々はいつだっておおらかだ。そんな街の景色を一瞬で塗り替えた未曾有の豪雨被害からまもなく1年。いまだ豪雨の爪痕が残るなか、街の再起をかけて奮起するつくり手たちの今に迫った。

全国の支援者に想いを届けたい。祈るように磨き上げた被災包丁。

 “鍛冶屋のカンカン、ゴーゴーとうるさい音で、今まで育ててもらった人吉に、商店街に少しでも賑わいと活気と元気を広げたい”。
 これは、江戸時代から約250年続く「蓑毛鍛冶屋(みのもかじや)」の10代目を担う蓑毛勇(みのもいさむ)さんが、豪雨災害の復興支援のために立ち上げたクラウドファウンディングの中で語った言葉だ。素直な人柄がにじむ勇さんの言葉は全国から多くの共感を集め、瞬く間に目標金額を上回る額を達成。鍛冶屋としての再起をかけた支援の輪は、力強い原動力となった。「年末のふるさと納税の返礼品に向けて、作り溜めていた作品がすべて水に浸かってしまっていました。けれども、捨てるのは包丁に対して申し訳なくて。復興への思いを込めて、1本1本祈るような気持ちで磨き上げました」。REVIVAL(リバイバル)を表す「R」の文字が刻印された被災包丁は、全国の支援者の元へと旅立った。

現在の球磨川の写真

川に寄り添うように発展してきた人吉の街並み。温泉街のゆるやかなムードは変わらないものの、街中には再起が叶わないままの店も多い。

蓑毛さんの写真

街ににぎわいを取り戻したい一心で、この一年鍛冶屋の仕事に打ち込んできた蓑毛さん。
一家が過ごした自宅兼店舗は、今年6月にようやく公費解体が始まったばかり。

鍛冶屋の「火」を絶やさない。10代目の夢と決意。

 昭和49年(1974年)から構えている工場の壁は、鉄を焼く炉から出る煤(すす)で真っ黒だ。黒に覆われた世界で、真っ赤に燃える鉄を叩く父や祖父の姿に幼い頃から憧れていた。幼い頃から夢は“包丁屋さん”だったものの、父であり9代目である蓑毛稔(みのもみのる)さんの薦めもあり、県外で自衛隊員として勤務する。11年間勤めた後、30歳を目前にどうしても鍛冶屋の夢を諦めきれず、生まれ育った街に帰郷した。
 鍛冶屋の修業は、ひたすら日常の作業を見て学ぶこと。見るだけでも4〜5年の時間を費やす。なぜなら「教えたところでできるものではなく、自分で考えて、感覚を鍛えるしかないから」。時に作業としてのコツは教えるけれど、押し付けはしない。代々そうやって蓑毛さん一家は技を受け継いでいるという。

 包丁の写真

抜群の切れ味で料理が楽しくなる和包丁。研げば何年経っても使い続けることができ、刃先から自然とにじみ出る鉄分は、食事の栄養価を補ってくれる役割も。

蓑毛勇さんの作品の写真

自衛隊時代に派遣されたソマリアで見つけたという紐を巻き、機能性とデザイン性を高めたナイフは、勇さんの作品。一見遠回りに思える経験も今につながっている。

かけがえのない日常への祈りを 身近な刃物という存在に込めて。

 分かっているだけで230年以上の歴史を持つ「蓑毛鍛冶屋」。伝統を背負う責任を感じる間もなくひたすら修業に打ち込んできた。鍛冶屋として4年目の夏を迎えた今、豪雨被害に見舞われた経験を通して、改めて10代目を担うプレッシャーと覚悟を実感しているという。「今回の豪雨で、当たり前の日常が当たり前でないことに気付かされました。休業中に自分と向き合えたことは大きかったですね」。包丁やナイフは生活の場で身近な道具であり、大切な暮らしを形づくる相棒のような存在であるからこそ、毎日祈るような気持ちで包丁を研いでいるという。今回、被災した包丁や農具も、修理をすれば元通りに使えるものがほとんどだったとか。「たとえ別のお店で購入されたものでも、喜んで研ぎます。ほとんどが研げば復活するものなので、まずは1本の包丁を大事に使うところから始めてもらえたら嬉しいですね」。

蓑毛裕さんの写真

祖父であり、8代目として70年以上腕を磨き続けて来た蓑毛裕(みのもゆたか)さん。手掛けているのは、釘を抜く際に使うバール。硬すぎても折れてしまう、軟すぎても釘が抜けない。絶妙な温度調整が必要な道具のひとつ。

鍛冶屋独自の壁飾りの写真

1年の初め、最初に火入れをする際に、安全を祈願して作るという鍛冶屋独自の壁飾り。ここで過ごした年数と同じ数が並ぶ姿は圧巻だ。

「仕事ができる日常が当たり前ではなく、朝起きて仕事ができる。それだけで幸せなことなんですよね。今までは“嬉しかった”のですが、今では“感謝”の気持ちに変わりました」。近道のない鍛冶屋の世界に踏み出した蓑毛さんは、かけがえのない日常に祈りを込めて、今日も真っ赤な鉄を打つ。

 

蓑毛鍛冶屋
所 熊本県人吉市九日町70
Tel 0966-23-3874
営業時間 7時30分~19時00分
定休日 なし

力を貸してくれた人々の存在が 希望の光そのものだった。

 「当時は、真っ暗なトンネルの中に放り込まれたような感覚でした。ボランティアの人が来てくれている瞬間だけ、目の前に灯りが灯されて、少しだけ前に進める。その積み重ねでここまで来れました」。そう語るのは、令和2年7月豪雨で壊滅的な被害を受けた「大和一酒造」の代表下田文仁(しもだふみひと)さん。豊かな自然に恵まれたこの土地が、酒どころとして親しまれるようになった歴史を紐解くと、戦国時代にまで遡る。球磨焼酎は、国産米と人吉球磨の恵みをたっぷりの水で仕込み、人吉球磨地方で蒸留・瓶詰めしたもの。蔵元たちが切磋琢磨する中で、さまざまな銘酒を世に送り出してきた。

令和2年7月豪雨被災当時の写真

被災当時の様子を撮影した写真は、濁流の爪痕が色濃く残る店舗内に貼り出されている。

大和一酒造の代表下田さんの写真

教員というキャリアを経て、文仁さんが飛び込んだ酒造りの世界。外から蔵元の仕事を見る時期があったからこそ、昔ながらの製法を生かした温故知新の酒造りを大切にしている。

大和一酒造の焼酎の写真

「大和一酒造」は、一風変わった焼酎に定評がある蔵元。人吉の牛乳を使った牛乳焼酎や、蔵の中に湧き出る約50度の温泉水を使って醸した温泉焼酎は、ほかではなかなか出合えない味わいだ。

命の危機を感じた水の脅威 丹精込めた焼酎が消えた日。

 ところが、令和2年7月豪雨で、酒蔵と自宅の1階部分が全て水没。未明から鳴り響くサイレンの音に戦々恐々としながらも、できる限りの対策を尽くして自宅の2階に避難したという下田さん。自宅付近の水位が最も上昇したのは、午前10時。下田さんは、あまりの水の勢いに命の危険を感じると同時に、これまで大切に守り継いできた蔵が泥水に飲み込まれて行くさまをただ呆然と眺めることしかできなかったという。
 ようやく水が引いた頃、蔵の中を見に行くと、貯蔵していた合計4万リットルの焼酎が、泥水とともに消えていた。2000リットルの焼酎が入ったタンク1つの重さは約2トン。それがコンクリートで埋め立てられていたにも関わらず、地中から湧き出る水の勢いに押し上げられ、横転していた。すさまじい勢いで破壊されていく蔵からは、窓ガラスの割れる音や、冷蔵庫の倒れる音だけが響き渡っていたと下田さんは振り返る。

下田さんが記録した被災した当時の写真

下田さんが記録した写真が、被災した当時の様子を物語る。麹室の周りに断熱材としてあったもみ殻が、泥水と混じり合い蔵の中に散乱した。

新しく改修した麹室の写真

酒造りに欠かせない麹室は、本来、硬く耐水性に優れた栗材を使っていたが、容易に手に入るものではなかったため、耐水性の高い檜で新設した。

 下田さんが救われたのは、災害が起きた翌日に駆け付けてくれた蔵元仲間の存在だ。「誰もが被災者である中、専門的な知識を持った仲間が手伝ってくれたことは本当にありがたかったですね」。その後も途方もない量の泥を掻き出しに来てくれたボランティアの人々の存在は、確実に今日を生きる原動力となっていたという。「朝、手伝いに来てくれる人がいなければ、きっと布団から出ることさえできなかったかもしれません」。

温泉水を使った焼酎「温泉焼酎夢」の写真

「ようやくメインとなる銘柄を全国に届けることができるようになったところです」と、安堵の表情を見せる下田さん。原酒の製造をすることを第一に、復興に向けて歩みを進めている。

伝統を革新に変えていくのは 類まれな行動力と発想力。

 そんな中、今回の水害で泥に浸かった書類を一つひとつ洗い出していたときのこと。「先代である父が挑戦し、失敗に終わった焼酎作りにまつわる、おびただしい数の書類が出てきたんです」と下田さん。試行錯誤の末に、商品化した人吉球磨産の牛乳を使った焼酎「牧場の夢」や、温泉水を使った焼酎「温泉焼酎夢」は、看板商品として全国にその味を心待ちにするファンがいる。並々ならぬ行動力と発想力で焼酎と向き合ってきた父の足跡を目の当たりにした下田さんは、「球磨川にやられっぱなしじゃいかん。球磨川という名前の酒を作ってやるぞ」と自らを奮い立たせた。
 ところが、肝心の“球磨川”の商標登録を調べてみると、豪雨の被害に多くの寄付を寄せてくれた「霧島酒造」がすでに取得していた。そこで、直接電話を入れて、多くの支援に対するお礼の言葉とともに、“球磨川”の商標登録の譲渡を申し出た。後日、霧島酒造からは、球磨焼酎の酒造組合宛に商標登録が譲渡されたというから、その懐の深さに驚かされる。「今の目標は、この経験を糧に作った焼酎・球磨川を無事に世に送り出すことです」と下田さんは語る。

大和一酒造の外観の写真

大和一酒造元の外観。商品名にも掲げる「夢」の文字が描かれている理由を尋ねると「夢があるから前に進めるのだと思います」と笑顔を見せてくれた。

27の蔵元が担う伝統の中に 豊かに生きる学びがある。

 球磨焼酎という地域の誇りを担う27の蔵元。そこには、代々伝わる味を忠実に守り伝える人、少し先を見据えて突き進んでいく人など、さまざまな個性が集う。そこにはライバルという関係性を越え、唯一無二の役割を担う仲間という存在がある。地域の恵みとともに培ってきた知恵と、守り継がれる技術に授けられるのは、伝統という冠だ。たゆまぬ努力によって優れた経験と技術を習得してもなお、自由な表現を追求する豊かさこそ、この土地に継承され続ける唯一無二の宝なのかもしれない。

 

大和一酒造元
所 熊本県人吉市下林町2144
Tel 0966-22-2610
営業時間 8時00分~17時00分
定休日 日曜・祝日