本文
昭和49年、日奈久駅から馬車が出ていた。芸妓さんが30人ほどいた。この頃八代亜紀がデビューした
ふらりとやってきた(昭和5年9月)山頭火。三泊もした。「日奈久は本当によい」と記した。人の噂で日奈久温泉を確かめにきたと思える節の文章だ。だから(噂どおり)「本当によい」と実感が‥‥。
種田山頭火 「行乞記」
山頭火日記
昭和五年 九月十日 晴。二百廿日。
行程三里。日奈久温泉織屋。(四〇銭、上)
午前中八代行乞、午後は重い足をひきづって日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいっしょになった。
方々の友へ久振にほんたうに久振に音信する。その中に私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へでました。歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよく海もよい。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)
九月十一日 晴、滞在。
午前中行乞、午後は休養、此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである。
九月十二日 晴、休養。
入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と共に活動見物、あんまりいろの事が考へさせられるから。
(『あの山越えて』山頭火行乞記 大山澄太編)
日奈久温泉の海岸
日奈久駅前
日奈久温泉神社の眺望
うたせ網(昭和5年)
金波楼(創業明治43年)の桜の木を張りつめた黒光の艶のある廊下、アールヌーボ調の階段に、華やぐ粋筋の姿を重ねて想像する時、映画「陽暉楼」のシーンそのものです。「不知火ホテル」の広間に残る黒々とした「柞の木の芯」や太いサルスベリの床柱。「柳屋旅館」の数寄屋風のお座敷。「旅館泉屋」の天井など和風建築の匠の技が、日奈久温泉の奥深くに大切に残されています。
こんな日奈久温泉を訪れた文人・墨客はじめ名士の方々は数限りないことと思われます。公的記録に残るもの、或いはお忍びの方もあるでしょう。それぞれの宿のご主人に記憶をたぐって頂きました。昔の仲居さんに問い合わせたりの難作業から順不同(敬称略)にあげてもらいました。
高松宮殿下(金波楼)、朝香宮殿下、徳富愛子、松岡元外相、眞崎大将、川上哲治(旅館泉屋)。徳富蘇峰、伊豆富人、(柳屋旅館)。田中澄江、向井吉見、宮田輝、アントニオ猪木、小山いと子、俳優座一座、劇団「雪」一座、元県知事・沢田一精(ひらやホテル)。八代亜紀(不知火ホテル)。(余談ですが、全国的カレンダーの童画作家の佐藤ゆう子は不知火ホテル女将の長女で、作品がロビーに展示)
などなどの皆さま方が日奈久の歴史を刻んだ足跡が残されています。それぞれの方の書や色紙、写真、お手紙などが大切に保存され、ロビーにも展示されています。
日奈久温泉のお湯と旅の物語を丹念に綴っていくと素晴らしい歴史遺産が顔を出すことでしょう。
細川家より拝領の伝世品
(金波楼)
高松宮殿下御使用の食器
(金波楼)
写真提供 ・山海荘(故浦川源次郎氏撮影) ・金波楼