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細川藩主・綱利(五代)が藩営の浴室を設けた

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008399 更新日:2020年8月1日更新

御前の湯の始まり、以後350年、天の恵みを

秀吉が日奈久を通った頃、温泉は干潟の中に湧いている程度でしたが、天下が平定され、江戸幕府が出来(1603)、日奈久の埋め立ても進み、海岸沿いの道路も拓かれて、参勤道路として薩摩街道も整ってきました。島津公も参勤往復の途上の憩いの湯として愛用されてました。本湯の前には高札場、藩の米倉も出来ました。
細川藩は明暦3年(1657)温泉浴室を大改築します。
むしろ新築といえる大規模な藩営の温泉場が出現します。
藩主が入浴する「御前湯」士分のための「お次ぎの湯」平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけた、身分に別けた浴槽で、画期的なものでした。

  • 藩主・綱利も入浴
    寛文9年(1676)当時27歳の綱利が入浴した文献が上野家に残されてます。
    「高田茶屋御一泊、其節焼物差上候……日奈久御入湯中度々召出御前にて焼物細工お好み仰せ付け……」。
  • 本湯の浴場は幾度も増改築されてきた

 綱利が命じた明暦の藩営浴場は幾度も日奈久の大火で焼失、その都度復興され明治期に改装されるまでの浴室は(A)図。平湯は男女混浴でした。
 明治になって藩の直営を離れ御前湯、お次ぎの湯は有料、平湯は無料でした。「殿さまが入ったお湯に入れる」と町民は大喜びしたことでしょう。
 平湯は間仕切りをつけて混浴禁止となったようです。

本湯の変遷と発展

  • 永応16年(1409)
    温泉海中にて発見
  • 明暦3年(1657)
    浴室大改築と藩営とする
  • 文政7年(1824)
    柳湯、築地湯海中に発見

間取り
(A)間取り変遷

大正時代の本湯
本格木造の本湯

日奈久は薩摩道の要。11枚の高札が建っていた

陣営温泉跡の地

熊本と薩摩(鹿児島)を結ぶ江戸時代の幹線・薩摩街道は、日奈久のど真中を通っていました。八代札の辻から前川、球磨川を渡り高田を通り日奈久温泉駅前を過ぎて200mほどで国道と分岐する左斜めの道が薩摩街道です(常夜燈が建つ)。(本紙裏表紙参照)
 両側に町家が並ぶ細い道、やがて現・温泉センター、即ち日奈久の本湯であり、前頁に述べた藩営温泉の跡です。広場には11枚立の高札場と番所がありました。文政12年(1829)の旅日記には「‥‥浴室は肥後殿建給うゆえ立派。切石の湯船、岸を下りて入浴するよう構えたり…」。「海辺にて満潮の時は湯壷に潮満つ、干潮に入浴す…」。
 街道はセンター前をそのまま直進し、下塩屋、馬越を越え鳩山の山中をこえて二見へ。
 当時、日奈久から船便が各方面へ出ていました。まさに薩摩街道の中間の要として栄えていました。

村津気住宅

町中を通る街道

文化・文政の頃全国前頭九枚目を誇る

温泉番付

貴重な温泉番付。西之方として日奈久温泉は前頭九枚目に評価されています。
参考までに、阿蘇は前頭二枚目、山鹿温泉は七枚目となっています。
江戸時代の日奈久の隆盛ぶりがわかります。

西郷隆盛も日奈久の湯に入った?

薩摩街道の中間の要であったばかりか、藩営の湯があった当時、薩摩の島津公も幾度か立ち寄った。若い頃、島津藩に仕えていた隆盛の姿がもしかするとそこにあったかも知れない。当時、鹿児島城下から江戸までは全行程20日余であった。
日奈久は異国領内で結ぶ、旅たちの第一夜であった。そして、帰途は、「明日は、わが国へ‥‥」と胸をときめかすフィナーレでもあった。

  • 島津公の参勤は、多くは鹿児島~日奈久間は船で往来していた。細川藩は船の提供から水天まで手配するほど友好的関係であった。
    藩営の温泉が山鹿でなく日奈久に設けられたのも島津公との関係と思われる。(中原文敬氏)

日奈久マップ

薩摩街道の二つのルート

薩摩街道は熊本方面より向かうと八代の入口付近で二筋の道に分かれる。一つは直進して八代城下を抜ける本道。もう一つは城下を避ける「奈良木往還」と呼ばれるコース。
島津氏を牽制するために設けられた八代城。薩摩藩の参勤交代の行列は、距離が近いという理由だけでなく、無用の摩擦を避けるために城下町を避け「奈良木往還」を通ったという。

※この項は、故・中原文敬氏(郷土史家、日奈久町長)が郷土愛育成として著された労作「日奈久の歴史」を参考、引用させて頂きました。


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