本文
日奈久の祖神・守り神の「温泉神社」
温泉発掘の神慮を与えて下さった神様を祀る
孝子・六郎が祈り続けた市杵島姫神のお告げで温泉が発見され、刀傷が治った——その話は近在にまで広がり日奈久の温泉に湯治の客が日増しに多くなり、日奈久のまちに人が集まってくるようになります。
「神様をお祀りしよう」と、村人は市杵島姫を祀る祠(弁天社)を建立します。まだ質素なものでした。後に類焼したり、兵火にあったり幾度か変遷の後に現在地に社殿が新しく設けられました。下欄のように多くの災難はありましたが、温泉の神様は日奈久の人に崇められ護られ続けて現在にいたります。後に六郎を祀る六郎神社も同じ境内に移ります。
ゆっくり143段の石段を登ると「文化」「文政」と彫られた奉納の石灯籠が目をひきます。本殿に残る彫刻も江戸期の優れた作品です。見晴し抜群。すぐ下は本湯の温泉センター、六郎温泉発見の場所です。昔は、そこまで海が迫っていました。
町並みが海の方へ広がり、堤防、港、港の上は自動車道の架橋‥‥海の向うに天草の島‥‥、日奈久の町の発展の足跡がよく分かります。かつてはこの境内は「不知火見物」の場所として有名でした。
日奈久温泉が熊本県下で(文書に残る)最も古いということが実感できます。
六郎の墓は神社登り口右側に。
温泉神社
丑の湯祭り
温泉神社の欄間の彫刻
応永16年(1409)
日奈久温泉の発見
応永26年(1419)
(中町に)弁天社建立
天明4年(1785)
大火災(93戸焼失)
弁天社類焼
文政5年(1822)
現在地に新しく社殿建立し遷座
欄間の彫刻は当時のもの
天保11年(1840)
地震により倒壊、すぐに改築
神社へ登る石段の途中に、土俵広場、それを四方から取り囲む桟敷席がある。天然の傾斜した地形を生かした階段状で桟敷一つ一つを石垣が取り囲む贅沢なつくり。「安政年間に創られた」との郷土史家の話。ローマのそれに匹敵する熊本のコロシアムといえる大切な歴史遺産。桟敷は2万人は収容できるので、奉納相撲はじめイベント会場として活かされている。