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足利尊氏が政権を執り、甲斐重村(かいしげむら)が肥後守に任ぜられます。この頃南朝方の菊池を本拠とする菊池武重と尊氏方の甲斐重村(甲斐宗運の祖)が戦います。この時、手傷を負った甲斐方の武将・浜田右近が、後の日奈久温泉発見のきっかけとなって物語は続きます(次頁参照)。少し詳しく述べますと、菊池武重と甲斐重村の戦いは阿蘇と合志の郡境・鞍岳の麓で合戦し重村勢は敗北、部下の浜田右近は傷を負って 日奈久近くの小島まで辿りつき療養の日を送ります。日奈久の漁民が同情し、右近を日奈久に招いて子供たちの読み書きの師匠として迎え、右近はやがて村の娘と結婚し男子に恵まれます。子の名は六郎左衛門、長じて父の刀傷の平癒を安芸の厳島明神に祈り続け、その満願の日、神のお告げに従って海の浅瀬を掘ると温泉が湧き出しました。
時に応永16年(1409)。
今から(平成16年)約六百年前のことです。
その温泉で父の傷も完治しました。
日奈久温泉の始まりの物語です。
南北朝時代八代地方は歴史に残る拠点となった。後醍醐天皇の皇子・懐良親王は九州の南朝の中心として征西大将軍として八代に入った。
八代市妙見町には懐良親王の御陵と菩提寺の悟真寺がある。高田には征西府跡の碑が残る。八代城内の八代宮には懐良、良成両親王をお祀りしている。
お告げの石
日奈久温泉駅から10分ほど歩くと装飾古墳の田川内古墳が鎮まっています。
かつてこの地方を治めた芦北の国造(くにのみやつこ)の子・日羅の墓ともいわれていますが‥‥謎につつまれています。
また水島は、球磨川の河口に浮かぶ島。かつてこの島に景行天皇が上陸された。水を求めて天地に祈ると水が湧き出した故事から水島と呼ばれている。後に長田王が「芦北の野坂の浦ゆ舟出して 水島に行かむ 波立つなゆめ」と詠んだ(万葉集)。日本書紀、万葉集に因む由緒の島。歩いて渡れる。
田川内古墳外部
古墳内部
水島