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八代の歴史【江戸中期~後期】

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008391 更新日:2020年8月1日更新

町人の力が大きくなって盛んになった九州三大祭りの「妙見祭」

妙見祭の亀蛇(きだ)の画像
妙見祭の亀蛇(きだ)

今から約350年前の江戸時代、松井氏(まついし)が八代を治(おさ)める頃から、政治が安定。しだいに、武士(ぶし)の力が弱まり、町人(ちょうにん)の力が大きくなっていきました。妙見祭(みょうけんさい)も町人が持つお金の力で、現在のように大きく立派(りっぱ)な祭りになりました。また武士たちも地域の人が豊かになるように、町人たちと協力して干拓(かんたく)をしたり、水路や石橋を作ったり、さまざまな土木工事(どぼくこうじ)をしました。

町人(ちょうにん)たちがお金を持ち、豊かになってくると、町人たちの服もだんだんと美しくなっていきました。武士(ぶし)たちは町人の力をおさえるために、きれいな衣装(いしょう)を禁止することもありました。この後の衣装は今の着物とほとんど変わらない形になりました。

干拓ってなに?

干潟(ひがた)などを事前に調べ、潮(しお)をせき止める場所(潮止め口・しおどめぐち)以外に潮うけ堤防(ていぼう)や樋門(ひもん)を作ります。そして大潮(おおしお)の日、潮が大きく引いた短い時間に、土俵(どひょう)などで潮止め口をふさぎます。この堤防の内側にたまった水は樋門から排水(はいすい)。長い時間をかけて地中の塩分を抜けば、水田(すいでん)になります。

江戸時代の年表やっくん、ちろちゃんの探検日記の画像1やっくん、ちろちゃんの探検日記の画像2

妙見祭(みょうけんさい)

 約1300年前、中国大陸から妙見神(みょうけんしん)が亀蛇(きだ)に乗って八代に上陸(じょうりく)した、という故事(こじ)に由来(ゆらい)する神社の祭りです。現在の行列(ぎょうれつ)は江戸時代初期に始まったもので、神輿(しんよ)や笠鉾(かさぼこ)などの神幸行列(しんこうぎょうれつ)が、妙見宮(みょうけんぐう)へ上(のぼ)ります。九州三大祭りの一つです。
住所/熊本県八代市妙見町 (妙見宮)
Tel/0965-35-4533 (八代市文化振興課)

岩永三五郎像(いわながさんごろうぞう) 

 岩永三五郎は、熊本県や鹿児島県内で石橋を架(か)け、肥後の石工の名声(めいせい)を大(おお)いに高めた人物。八代では700町歩(ちょうぶ)の干拓にも貢献(こうけん)しました。三五郎の墓地には石像が建てられています。
住所/熊本県八代市鏡町芝口豊原
Tel/0965-52-1111 (八代市鏡支所地域振興課)

大鞘樋門(おざやひもん)

 鹿子木量平(かのこぎりょうへい)の指揮(しき)により文政2(1819)年に作られた堤防の樋門(ひもん)。備前(びぜん)の石工・高野貞七(たかのさだしち)が造りました。七百町新地の干拓の際(さい)に寝泊(ねとま)りした人夫(にんぷ)たちが唄(うた)った「大鞘名所(おざやめいしょ・大鞘節・おざやぶし)」という民謡(みんよう)は、ここから生まれました。
住所/熊本県八代市鏡町両出大鞘
Tel/0965-52-1111 (八代市鏡支所地域振興課)

なるほど八代
商人の力がなくてはできない祭と公共事業

彦一先生

 江戸時代の中ごろ(今から約300年前ごろ)になると、町衆(まちしゅう)という町人(ちょうにん)たちによって、妙見祭(みょうけんさい)は盛んになりました。妙見祭の神幸行列(しんこうぎょうれつ)に笠鉾(かさぼこ)や獅子舞(ししまい)、亀蛇(きだ・ガメ)などが登場したのもこのころです。そして町人たちの力で、産業(さんぎょう)も成長しました。
 球磨川(くまがわ)や氷川(ひかわ)などたくさんの川があり、干潟(ひがた)が多かった八代では、干拓(かんたく)がさかんに行われるようになりました。
 また八代市東陽町(やつしろしとうようまち)には、種山石工(たねやまいしく)という特別な技術を持った人たちがいて、この人たちが作った石橋が今でもたくさん残っています。
 当時の人々が干拓や石橋づくりをがんばったおかげで、農業がさかんになり、交通の便もよくなり、人々の生活が豊かになりました。


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