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今から約500年前、応仁の乱(おうにんのらん)の後、戦国時代(せんごくじだい)になりました。
八代の領主も次々と代わりました。領主が代わると、八代の政治の中心であった城も、山の上にあった古麓城(ふるふもとじょう)から、球磨川河口(くまがわかこう)の麦島城(むぎしまじょう)へと移りました。
麦島城は後に地震でこわれてしまいますが、麦島城の代わりに、より大きな八代城(やつしろじょう)がつくられました。
この時代に現在の八代市中心部の基礎(きそ)ができました。
現在私たちが知っている着物の原型(げんけい)がほぼこのころにできあがりました。
やっくんは武士(ぶし)の服である裃(かみしも)を、ちろちゃんは武士の妻や女性たちの衣装である小袖(こそで)をきています。
建武の新政(けんむのしんせい)の後に造られた古麓城(ふるふもとじょう)は、攻めてくる敵に備えて、山の上にありました。しかし時代が変わり、海や川を使った交通が盛んになると、不便なものとなりました。そこで、交易(こうえき)に便利な球磨川河口(くまがわかこう)の中州(なかす)に新しく麦島城(むぎしまじょう)が作られました。麦島城は作られてから30年ほど後、地震で倒壊(とうかい)してしまい、徳渕津(とくぶちのつ)という港の対岸に八代城(やつしろじょう)を作り、城下町を移しました。中世から近世にかけての山城(やまじろ)と平城(ひらじろ)、3つの城跡(しろあと)が、限られた地域に残っているのは、全国でもあまり例がない、珍しいことです。
麦島城(むぎしまじょう)
現在の古城町(こじょうまち)一帯にあった城。天正16(1588)年頃に築城(ちくじょう)されたといわれ、元和5(1619)年の地震によって崩壊(ほうかい)。城跡からは、白い石で築かれた石垣や水堀(みずぼり)、大きな建物の基礎石(きそいし)、桐(きり)の紋(もん)が入った鬼瓦(おにがわら)や金箔瓦(きんぱくがわら)のほか、大量の建築部材(けんちくぶざい)が出土(しゅつど)しました。
住所/熊本県八代市古城町
Tel/0965-35-4533 (八代市文化振興課)
八代城(やつしろじょう)
元和8(1622)年、熊本城主(くまもとじょうしゅ)加藤忠広(かとうただひろ)が幕府の許可を得て加藤正方(かとうまさかた)に命(めい)じて築城した城。築城当時は、南北811メートル、東西1477メートルの大規模(だいきぼ)な城でした。現在は本丸(ほんまる)の石垣と堀(ほり)が残っています。
住所/熊本県八代市松江城町
Tel/0965-35-4533 (八代市文化振興課)
宮地手漉き和紙(みやじてすきわし)
慶長5(1600)年、日源上人(にちげんしょうにん)の弟・新左衛門(しんざえもん)が妙見町(みょうけんまち)を流れる水無川(みずなしがわ)で紙すきを始めたことが起こりとされ、藩(はん)の特産品(とくさんひん)として広く知られました。現在は宮田寛(みやたひろし)さんが農業と兼業(けんぎょう)しながら技(わざ)を継承(けんしょう)されています。
住所/熊本県八代市妙見町
Tel/0965-34-8311 (八代宮地和紙)
高田焼(こうだやき)
尊楷(そんかい・上野喜蔵・あがのきぞう)が八代郡高田郷(こうだごう)奈良木村(ならぎむら・現在の八代市奈良木町)に窯(かま)を開いたことが始まりといわれる焼物。象嵌(ぞうがん)の手法(しゅほう)を使った繊細(せんさい)な模様(もよう)が美しく、伝統の技を継承しています。
住所/熊本県八代市
Tel/0965-33-8513 (八代市商工・港湾振興課)
1587年の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)により、八代は小西行長(こにしゆきなが)がおさめることになりました。この頃、八代にルイス・フロイスという宣教師(せんきょうし)が来ました。フロイスは「日本史」という本に「八代は美しく、清らかで、優雅(ゆうが)で豊饒(ほうじょう)である…」と書きました。
また、この時代は日本の文化が大きく発展(はってん)した時期(じき)で、茶道(さどう)が広まったのもこのころです。茶道を広めた千利休(せんのりきゅう)の弟子(でし)である細川忠興(ほそかわただおき・三斎・さんさい)が、八代にさまざまな文化をもたらしました。妙見祭(みょうけんさい)の行列(ぎょうれつ)が今のような形になったのもこのころで、高田焼(こうだやき)も、細川忠興がつれて来た尊楷(そんかい・上野喜蔵・あがのきぞう)という人が始めたものです。また、手漉(てす)き和紙も水無川(みずなしがわ)のきれいな水をいかした産業(さんぎょう)として、このころ始まりました。やきものや和紙は、八代の特産品(とくさんひん)として、全国に知られています。