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今から約1600年前ごろから、日本は、大和朝廷(やまとちょうてい)を中心とする政治的なまとまりがつくられていきました。
この時代、八代地域では、豪族(ごうぞく)がむらなどを支配(しはい)していたと思われます。
人々は、土器(どき)を作り、稲(いね)を作る生活をしていました
やっくんとちろちゃんが着ている衣装は、貫頭衣(かんとうい)とよばれるもの。やっくんの服は身分が高い人のかっこうで、ほとんどの人は、ちろちゃんのような衣装をきていました。
万葉の里 水島(まんようのさと みずしま)
日本書紀(にほんしょき)や万葉集(まんようしゅう)に登場する小さな島。景行天皇(けいこうてんのう)が来た際、食事をする時に水がなかったので、小左(おひだり)という人が、神に祈(いの)ったところ、水が湧(わ)いてきたことが由来(ゆらい)といわれています。
住所/熊本県八代市水島町
Tel/0965-35-2021 (八代市文化課)
八代神社・妙見宮(やつしろじんじゃ・みょうけんぐう)
文治2(1186)年創建(そうけん)の神社。上宮(じょうぐう)、中宮(ちゅうぐう)、下宮(げぐう)で成り立つもので本宮(ほんぐう)は下宮にあたります。社殿(しゃでん)は県指定の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)され、江戸時代中期から後期にかけての社寺建築(しゃじけんちく)の特徴をよく表しています。
住所/熊本県八代市妙見町401
Tel/0965-32-5350 (八代神社)
野津古墳群(のずこふんぐん)
100メートル前後の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が4基ある古墳群。作られた時代は、いずれも古墳時代後期と考えられています。当時の豪族「火の君」の墓といわれ、石人石馬(せきじんせきば)の南限(なんげん)といわれています。
住所/熊本県八代郡氷川町大字大野字北川~大字野津字 上北山王・下北山王
Tel/0965-52-5859 (氷川町学校教育課)
大野窟古墳(おおののいわやこふん)
前方後円墳の可能性が高い円墳(えんふん)で、複数の横穴式石室(よこあなしつせきしつ)が複室(ふくしつ)あります。石室と石室に向かう羨道(せんどう)の壁(かべ)に、当時(とうじ)の赤色の顔料(がんりょう)が残(のこ)っています。
住所/熊本県八代郡氷川町大字大野字芝原
Tel/0965-52-5859 (氷川町学校教育課)
八代地域では、今から1500年以上前に作られた古墳(こふん)という昔の偉い人の墓がたくさん見つかっています。昔、ここには「火の君(ひのきみ)」という豪族(ごうぞく)が住んでいたといわれています。八代のように豊かな地域にはこうした豪族がいました。
また八代は、景行天皇(けいこうてんのう)が来た、という記録がのこり「ここは火の国、八代の郡(こおり)の‥」という文章が、日本で一番古い「古事記(こじき)」という本と、「日本書紀(にほんしょき)」という本にも出てきます。
八代神社(妙見宮・みょうけんぐう)は、今から約1200年前に、中国大陸からやってきた人々が信仰(しんこう)していた神様(妙見神・みょうけんしん)がまつられている神社で、後に仏教と混じり合い、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)という仏様になり、全国へ行きわたることになりました。
このことから、八代は大陸文化の窓口だった、とも考えられています。