本文
橋本勘五郎、岩永三五郎、そして鹿子木量平等の指揮のもとに、江戸後期から始まった”地域開発“は恵みの台地の創造と共に、八代地方の地盤の基礎を築きます。
今も残る多くの樋門や石橋を一つ一つ見て廻るとき心の昂りを感じるのは、それが単なるレトロではなく、地域開発に込めたひたむきな入魂の結晶であるからです。
すべてが、手づくりです。人の力です。
やがて明治に入り、古城弥二郎郡長が干拓に力を注ぎました。その強い信念のもと郡築新地を完成させました。新しい産業(工場)が興る大きな基盤となりました。
周辺の豊富な石灰岩を活かした「九州第一号」のセメント工場
(明治23年)を皮切りに、九州最初の製紙工場(坂本村)(明治29年)が出来て、八代は工業都市へ向かいます。
周辺の農村地帯の人が労働力をカバーし、城下町の活力にもう一つの賑わいが加わっていきます。チッソ鏡工場(大正元年)も出来ました。
さらに昭和酒造株式会社(現・メルシャン(株))八代工場(昭和14年)が興り、折からの軍需産業としての加速と共に生産を高めます。
戦中、戦後を通して田園地帯や海岸埋立地に新しい工場が立ち並び、さらにイ草の生産も伸びて空前の繁栄期を迎えます。
商店街、歓楽街や日奈久温泉の賑わいは”熊本一“でした。なにしろ、会社勤め一人当りの給料は熊本市のそれの173%、工場出荷額は
(一人当り)2.5倍だったといいます。
(昭和37年)
その賑わいはオイルショック(昭和48年)や公害問題で鎮静期を迎えることになります。——が、かつて燃えさかった火は〈おき〉のように生きづいています。
永い歴史のうねりを見てきました。
世の常の歴史の盛衰の中で、八代は時代、時代の重要な役割を担いながら発展してきました。一貫して流れているのは、その根底にいつも文化が核になっていました。
古麓、妙見中宮、下宮門前町、麦島城下町、八代城下町——各時代の重要文化財も今に伝わっています。
西山宗因の連歌、文化都市を目指した三斎流の茶の湯、妙見祭神幸行列などの無形文化も根づいています。
細川家第十七代当主・細川護貞氏が「松井家と八代は恰もメディチ家とフィレンツェの縁のようなものだ」と評した松井家の(財)松井文庫には多くの古文書や美術品が蔵されています。
新幹線がやってきました。
新幹線という文明に対して、培われてきた八代の文化を、どう生かしていくか、新しい希望が湧いてきます。今こそ先人のDnaを力をあわせてエネルギーに変えて進むべきときになりました。〈おき〉の火を燃えあがらせて——。今からが楽しみです。
七百町新地潮留図(鹿子木勝氏蔵)
大鞘樋門(八代市千丁町古閑出・鏡町両出)
九州製紙(現・日本製紙)深水発電所(八代市坂本町中谷3)
かつての八代の工場群(十条製紙)
新線新八代駅
1890(明治23)
日本セメント操業→昭和55・閉鎖
1896(明治29)
東肥製紙(坂本村)操業開始
→九州製紙→王子製紙
→十条製紙→西日本製紙(昭和63解散)
1904(明治37)
郡築干拓完成
1912(大正元)
日本窒素肥料鏡工場操業
→日産化学→昭和33閉鎖
1924(大正13)
九州製紙(株)(現・日本製紙(株))八代工場操業開始
1930(昭和5)
種田山頭火、日奈久温泉
(織屋)に宿泊、九州山地へ向う
その宿は保存されている
1937(昭和12)
日曹人絹パルプ(株)(現・(株)興人)八代工場操業開始
1939(昭和14)
昭和酒造(株)(現・メルシャン(株))八代工場操業開始
1975(昭和50)
Ykk(株)九州工場操業開始
1989(平成元)
ヤマハ八代製造(株)
(現・ヤマハ熊本プロダクツ(株))設立
2004(平成16)
九州新幹線・肥薩おれんじ鉄道開業