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加藤正方、八代城を築く。続いて細川忠興(三斎)が城主に。
小西行重によって築かれた麦島城は地震で崩壊(元和5年・1619)。
一国一城令が出ていた時ですが、特例で再建を許され、現在の地に、より大きな城(八代城)が完成します。地理的にも八代が島津藩及び諸外国への防備の拠点であるからです。
不知火海沖の白島等から大理石や石灰岩を切り出して石垣に、人吉からの材木で築かれた城は夜空にも白く輝いていたといいます。前川を自然の外濠にし、内城と外郭に囲まれた城下町の顔が見え始めます。
加藤家についで、幕府の命で「熊本城主は細川忠利を、八代城には父三斎を居城仰せ付け」られます。
三斎70歳の時です。83歳で没するまで、文化都市八代を目指しました。妙見宮祭礼の神幸行列を興し、徳渕には造船所、豪商が軒を並べ、祭りを支えます。三斎は「百花の魁となる人材出でよ」と念じて八代城北の丸に臥龍梅(がりゅうばい)を植えました。四百年後の今も咲き匂い三斎の志を伝えています。
利休高弟の三斎は茶を愛し、「茶」は肥後古流の名とともに盛んになります。お茶菓子の「よく苡仁糖(よくいにんとう)」は三斎の発案です。
宮地地区の中宮川の美しい流れを活かして手漉き和紙が作られるようになるのは「関ヶ原」以後です。柳川藩の矢壁新左衛門が加藤清正に命じられて和紙づくりを始めたのが興りです。加藤→細川→松井家と受け継がれ、宮地の和紙は御用紙として盛んでありました。現在は宮田氏がその歴史と伝統技術を受け継いでいます。
忠興(三斎)の八代城入りに伴って豊前上野から陶工尊楷が八代の奈良木に窯を開いたのが始まり。
高麗青磁に白、黒の象嵌(ぞうがん)を入れた優美な特色を誇っています。熊本を代表する伝統的工芸品です。
江戸後期、日奈久温泉の銭湯は無料で、旅宿は繁盛していました。この頃湯女の中に「おきん」と言う瓜実顔の美女がいました。遠来の湯治客もおきんを一目見たいと訪れました。おきんは若くして世を去ったため、里人がその姿を偲び、人形を作って売り出したのが始まり。始めは土人形でしたが、現在のような木製で野趣に富んだ人形になったといいます。
古麓城(当時は八代城)に入った秀吉に、高田村の人が保存していたミカンを献上、「旨い!」秀吉は大変喜んだ。
以後、高田ミカンは朝廷と将軍家に献上され有名になりました。
彼の「日本史」によると「八代は美しく、清らかで、優雅で豊饒である……。
幾つもの美しい川が流れ、多数の岩魚が満ちあふれている。海は城の麓にある主要な町に入る一里手前まで(入りこんでおり)、その町へは、海路からでなくては入ることも登ることもできないようになっている。
これはいっそうその地を安全に確保せんがためである。見渡す限り、小麦や大麦の畑が展開し、清浄で優雅な樹木に掩われた森には、多くの寺院が散見し、小鳥たちの快い囀りが満ち溢れている。」
麦島城復元図
(八代市立植柳小学校蔵)
八代城跡
(八代市松江城町)
宮地手漉き和紙
(八代市妙見町)
高田焼
(八代市・氷川町)
16C
〔麦島城時代、小西・加藤時代〕
1587(天正15)
秀吉の島津征伐・ルイス・フロイス、古麓城で秀吉と会う
秀吉4月19日から4日間八代に滞在
1590(天正18)
小西行重、麦島城を築き、古麓城より移転
1600(慶長5)
関ヶ原ノ戦後、加藤清正、肥後全土を領す
宮地手漉和紙製造はじまる
1612(慶長17)
加藤正方、八代入
1619(元和5)
麦島城地震で崩壊
〔八代城時代——
前期、加藤 後期・細川時代〕
1622(元和8)
加藤正方、八代城完成
加藤忠広、妙見宮を復興
1632(寛永9)
12月25日 細川忠興(三斎)、八代入
上野喜蔵八代焼を始む
肥後手打・盛高刃物の祖、三斎に従って入国
1633(寛永10)
泰勝院を小倉より移転(後、宗雲寺・泰巖寺となる)