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八代の豊かさを文化財でたどる

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008382 更新日:2020年8月1日更新

八代の山・里・川の恵みの豊かさは、そこに眠る史蹟や文化財が雄弁に語り伝えてくれる。

一つ、一つ、語りかけながら歩いてみよう。

一帯に残る多くの古墳群は古代の里を物語り、万葉集に伝わる水島の故事は奈良時代のロマンを、そして「妙見宮」の社では妙見信仰を携えて渡来した海外の文化集団が偲ばれる。古麓(ふるふもと)一帯に秘められた南北朝時代の懐良親王(かねながしんのう)の史蹟、小西行重の麦島城、異色のルイス・フロイスの八代見聞録には飾りのない八代の風土が綴られる。

近世、細川忠興(三斎)、松井家の文化文事の足跡、干拓の樋門の石垣、そして、肥後の石工のふるさとに架かる石橋群——いずれも、どの時代も途切れることなく、史蹟や文化財の数々が八代の永く深い歴史を物語る。

少し離れると、五家荘の平家落人伝説も加えて、まるで日本史がギュッと詰まったようなふるさと八代の魅力。それは、21世紀につなぐかけがえのない宝に満ちている。

景行天皇不知火海(しらぬひ)で巡幸
「ここは火の国、八代の郡の火の邑(むら)なり」

三世紀半ばから四世紀はじめにかけて崇神天皇、次いで景行天皇が八代地方に行幸し、この時、「ここは火の国、八代の郡の火の邑なり」と風土記や記紀に残されています。

古い時代から八代が中央と関係のあったことを物語っています。さらに景行天皇が「水島」で神に祈ると泉が湧いたという伝説も。後に長田の王が景行天皇の故地を偲び、水島で歌を詠みます。

「聞きし如 まこと貴く 奇(くす)しくも 神さび居るか これの水島」

「芦北の野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ」

古く万葉の時代から八代は「記」・「紀」に登場しています。

妙見信仰の文化集団—八代へ上陸

妙見宮(八代神社)の祭神は、北極星と北斗七星とされています。そして神様が亀蛇に乗って八代にやってきたと——。

判り易く”ガメ“さんに乗ってきたとされていますが、その昔、妙見信仰を持つ文化集団が、中国大陸から永住の地を求めて八代に上陸したことを歴史書は語っています。八代は大陸文化の窓口であったわけです。妙見上宮が創建され、次に中宮、やがて下宮である今の妙見宮(八代神社)と遷り、門前町(宗教都市)が生まれました。

野津古墳
野津古墳群
(氷川町)

万葉の里 水島の画像
万葉の里 水島
(八代市水島町)
八代神社の画像
八代神社
(八代神社=妙見宮)
懐良親王を祀る八代宮の画像
懐良親王を祀る八代宮
(八代城本丸跡)

古代から八代の名は、続いています。

記紀にすでに八代(やしろ)の名が出てきます。奈良時代から八代の名は変わることなく引き継がれています。

一説では、八=沢山の意、代=は田を意味していると言われています。すなわち、球磨川の河口に開けた数多くの田どころを意味する素晴しい名前です。

主な出来事

古墳

古墳時代、氷川流域一帯は豪族火の君の支配下にあった。
大王山古墳(氷川町早尾)や野津古墳群とその出土品(金の耳飾りなど)は当時の豪族の存在を示している。

飛鳥

681(白鳳9)
妙見信仰の文化集団、八代へ(琳聖太子一行、渡来説など)

奈良

720(養老4)
長田王水島の歌を詠む
771(宝亀2)
妙見神横岳に鎮座

平安時代

795(延暦14)
妙見上宮、創建
1160(永暦1)
妙見神を上宮より中宮へ遷座
〔妙見宮時代〕
1186(文治2)
妙見神を中宮より下宮へ遷座


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