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知事ヒストリー

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0072628 更新日:2020年12月1日更新

家は貧乏で、勉強もできない正真正銘の「落ちこぼれ」

わたしは1947年(昭和22年)、熊本県の稲田村(現在の山鹿市)に生まれました。父母、祖母と7人兄弟の10人家族で、耕す田んぼは二反半しかありません。お米も食べられないし、お金もない、とても貧乏な暮らしでした。
わたしはといえば、勉強を一切しない「落ちこぼれ」でした。高校の時には、ほとんど学校の授業は受けず、近くの山の「一本松」の下で、好きな小説ばかり読みあさっていました。そんなわけで、成績が良いわけもなく高校では220人中で200番台でした。家は貧乏で、勉強もできない正真正銘の「落ちこぼれ」でした。
また、高校を卒業して就職した自動車販売会社は1週間で辞めてしまうような「根性なし」でもありました。その後、地元の農業協同組合に勤めるようになっても、わたし自身、仕事にやりがいを見いだせず2年で退職してしまうことになります。
そんな落ちこぼれのわたしにも、3つの「大きな夢」がありました。
その夢とは「小説家になること」「政治家になること」「牧場を経営すること」です。
当時のわたしを知る人ならば「とんでもない夢だ!」と言ったことでしょう。でも、どんな落ちこぼれでも「夢」を見ることはできます。しかし、ほとんどの人は夢を夢のまま終わらせてしまうことが普通です。
わたしは、そんな夢に向かって一歩だけ前に踏み出すことができました。この「一歩」を踏み出せるかどうかで、人生は大きく変わります。特に若い人たちには、前に踏み出す勇気の大切さを知ってほしいと思っています。

大きな夢-牧場を経営すること

わたしは、どんな人生にも、最低、五度の大きなチャンスが潜んでいると信じています。そこで一歩を踏み出すかどうか・・・・・「その踏み出す一歩」が人生を大きく変えてくれると思います。
地元の農業協同組合に勤めてはみたものの、仕事のやりがいを見つけることができません。
そんな時に「派米農業研修生プログラム」の広告を見つけました。「牧場を経営したい」というわたしの夢に近づけるような気がして、人生で初めての大きな決断をして応募しました。それからは毎日、英語を猛勉強し、競争率4倍の試験にパスしてあこがれのアメリカに渡ることになったのです。

一日中働く研修生活

ところが、アメリカで待っていたのは「農奴」のような生活でした。飼われている牛は生き物ですから365日世話をする必要があります。わたしは研修生としてのつもりが、その受け入れたアメリカ人にしてみれば、安い労働者として扱っていたのだと思います。当時60年代は人権意識も低かったし、悪い労働条件の中で1日中働いていました。

「農作業と比べ、(学問は)なんて楽なんだろう」

その研修生活の中で、ネブラスカ大学での3カ月間の学科研修であったのですが、勉強するだけでご飯が食べられることが、「農作業と比べ、なんて楽なんだろう」と単純に思いました。
2年間の辛い牧場生活を支えてくれていたものは、出発前に付き合いを始めた、後に妻になる彼女からの手紙でした。その当時から、知事になった現在まで、妻には本当に感謝しています。
1971年1月、辛い重労働を乗り切ったわたしは、ネブラスカ大学での3カ月の学科研修に入りました。ここでは3ヶ月という限られた時間の中で覚えなければならないことが山ほどあり、毎日勉強に明け暮れました。しかし、自分がやってきた重労働に比べると、勉強ははるかに楽なものでした。「勉強とはこんなに楽なものなのか」と感じましたし、「ここでもっと勉強がしたい」と考えるようになりました。
研修生活を終えて、いったんは日本に帰りましたが「アメリカで勉強を続けたい」と言う思いでいっぱいでした。彼女をはじめ、周りを説得して納得してもらい、旅費を貯めるために半年間牛乳配達をしました。わたしが、再渡米して、ネブラスカ大学に戻ったのは1971年9月のことです。

一学期目の成績はオールAという成績

最初は仮入学として入った大学でしたが、勉強が面白くてたまりませんし、一所懸命に頑張りました。そのかいあって、一学期目の成績はオールAという成績を取ることができました。アメリカという国は面白い国です。良い結果を残すと、それに見合ったものを与えてくれるのです。オールAを取りましたので、仮入学からいきなり特待生として迎えられ、授業料も半額免除となりました。また、多方面から奨学金も受けられるようになり、渡米生活もずいぶんと楽になったのです。
1972年4月2日、学生の身分でしたが、妻をアメリカに呼び寄せて、ささやかながら心温まる結婚式をあげました。
ネブラスカ大学ではジーママン教授のもとで繁殖生理学を学びました。研究対象の1つが「豚の精子の保存法」というものです。ネブラスカ大学では4年間学びました。

大きな夢-政治家になること

卒業が近づいてくると、夢であった「政治学を学びたい」と考え、「政治学をやるなら有名なハーバード大学で一流の研究をしたい」。そんな無謀なことを考えはじめました。
ハーバード大学院の願書に書いたことは次のようなことです。

「学部で政治学のコースを取ったことはない」
「結婚して子どもが二人いるので、奨学金は不可欠」
「親は、小作農で田んぼ二反半(約0.5エーカー)を耕していて、財産はなし」

専門でもなく、親の力もないのに、奨学金は欲しい。こんな虫がいい学生がハーバードに合格できたのは、アメリカという国の寛容さと、ジーママン教授をはじめとする強力な推薦状のお陰でした。ハーバード大学では、旅行ガイドなどのアルバイトをしながら、政治学を学び、3年9カ月という早さで大学院を修了することができました。
10年前に、農協の職員を辞めて渡米した先で、勉学に目覚め、再渡米を図って、大学はおろか大学院まで出てしまった。しかも、その間に最愛のパートナーと結婚をして、愛する3人の娘までできた。人生とは本当にわからないものです。
帰国後、日本国際交流センターにお世話になった後、わたしの学者生活は筑波大学で始まりました。筑波大学では1985年に助教授に、1991年に教授になりました。
1997年4月からは、東京大学から招聘(しょうへい)があり、自分の専門により近い「政治過程論」を教えることとなりました。
ずいぶん前から、マイナスな面をとらえて「大学全入時代」という言葉が使われています。わたしから言わせてもらえば大学全入時代は大歓迎です。チャンスの芽をどこにでも置いておくことが大事だと思っていますし、チャンスをあらゆるところにつくるのが社会の仕事であり、大学の仕事でもあると考えています。

逆境の中にこそ夢がある

これまでの人生を振り返って、わたしが思うのは、逆境こそが人生成功の鍵になるということです。
わたしは子どもの頃から「貧乏」という絶対的な逆境にありました。人生のスタートラインがもともと他の人より、ずっと下にあったのです。貧しい生活も、アメリカの研修生活での苦しい労働も、わたしにとっての逆境であり、この逆境のなかで、夢を持ち、一歩を踏みだしたことで、1つ1つのステップが開けてきたように思います。

大きな夢-政治家になること

わたしは11年間お世話になった東京大学を辞して、2008年4月に多くの熊本県民の支持を得て、熊本県知事に就任しました。

県民幸福量を最大化

知事として、今のわたしの夢は「くまもとの夢」を実現し、「県民幸福量を最大化」することです。わたしは、人間として、知事として、政治学者として、これまで自分が得てきたものの全てを投入して「生まれてよかった、住んで良かった、これからも住み続けたい熊本」をつくっていきたいと考えています。


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